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19世紀 ベルギー製 ニミー ディナープレート 幾何学模様縁取り

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11,300円

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こんにちは。 フランスとの国境から遠くない、ベルギーワロン地方のニミー陶器工場は、近郊のナミュール出身ののアントワーヌ・ジョセフ・デュードンヌによって設立されました。 当初モンスの町の判事にそこに陶器工場を設立する許可を求め、ルヴロワ子爵フランソワ・ド・ブジーとその兄弟、市長ボナヴァンチュール・ド・ブジーと提携契約を結びましたが、王政評議会に要求を拒否され、アントワーヌはモンス近郊のニミー村に目をむけました。 陶器の原料を粉砕するための石臼を操作するための原動力を見つけることが不可欠であり、ニミーにはいくつかの製粉工場と油工場がありました。 1789年7月22日付の契約で、ド・ブジー兄弟は川の反対側に製油所を再建することを約束し、車輪と1本の回転シャフトで陶器工場と精油工場が同時に機能したそうです。 この年、アントワーヌは政府に要請を送り助成金を獲得し、新しい陶器工場に「インペリアル・アンド・ロイヤル・ファクトリー」の称号が与えられました。 翌年、この陶器工場はすでに多数の日用品を生産しており、4 人目のパートナー、プロコープ・デ・セカス男爵が参入しました。 1796年、陶器工場はボナヴァンチュール・ド・ブジーの手に経営を委ねました。 彼は会社の発展と近代化に全力を尽くし、新しい建物を建設し、ブリュッセル、リール、モーブージュに店舗を開きました。 生産も多様化し、これまではコバルトブルーのみが使用されていましたが、多色使いの装飾、イエロー、イングリッシュブラック、グリーン、レッドなど導入しました。 イギリス(ウェッジウッド)のジャスパー・ウェアとフランスのドゥエー窯の水仙などを模写しました。 結果生産も利益も増加し、工場は拡大され、新しい窯が建設されました。 1806年には24人の旋盤工と成形工、17人の塗装工が雇用されました。 1810年にジョゼフ・ド・ブジーが亡くなり、経営は彼の兄弟が引き継ぎました。 この頃には250人の労働者が雇用され、ゲント、ハーレム、ブリュッセルで多数の展示会に参加していました。 しかし英国陶器の大量輸出に押され、1833年には、従業員はわずか30から40人に減少しました。ラ・ルーヴィエールのボック窯への売却も検討しましたが、数々の困難にもかかわらず、1848年までなんとか活動を維持しましたが、ボードールに磁器工場を所有していたフランソワ・デクレールに管理を委託することになりました。 1849年、ケラミス陶器工場の責任者であるジャン・ピエール・ムーザン、陶芸家テオフィル・レカット、その他の株主に売却されました。 有限責任組合「デクレック・エ・カンパニー」が設立されましたが、1851 年 1 月に解散され、その後「ムーザン・ルカット・エ・カンパニー」とがこの施設を管理し、その後再び繁栄しました。 近代的な設備によりライバルとの競合が可能になり、1858年にフランスのオナン陶器工場を買収し、1878年にワスムエル工場を設立しました。 1897年、675人の労働者を雇用し、5ヘクタールの面積を誇っていました。 1914年、戦争により状況は悪化。 1921年に工場はマーストリヒト陶芸教会に売却されました。 第2次世界大戦により多くの海外市場が閉鎖され、1950年にすべての活動を停止し、建物は 4 年後に取り壊されました。 マークの情報はありませんが、19世紀のお品ではないでしょうか? ニミー窯のディナープレートが入荷致しました。 真っ白な釉薬の、縁に4ヶ所2本づつ、控えめなレリーフが入ったお皿に、リボンをジグザグにしたような、これまた控えめな幾何学模様が濃いブルーのデカルコマニー(転写画)で描かれた、シンプル、ミニマリストなお皿です。 なかなか見かけない新鮮な印象のお品です。 他の食器とも合わせやすいのではないでしょうか? 見込みに多少の使用した痕はありますが、綺麗な状態です。 直径24cm 高さ2、5cm  重量450g 価格は商品代5650円、フランスからの送料5650円になります。

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